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2014-木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)に対する告訴状(被疑事実殺人未遂)のブログ版

2014年10月24日金曜日

2014−10−24_Twitterでブロックされている坂本正幸弁護士による袴田事件に関する検察の証拠捏造という問題提起らしきもの

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"Title : 2014−10−24_Twitterでブロックされている坂本正幸弁護士による袴田事件に関する検察の証拠捏造という問題提起らしきもの
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"Tags : 袴田事件,坂本正幸弁護士
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**** 2014−10−24_Twitterでブロックされている坂本正幸弁護士による袴田事件に関する検察の証拠捏造という問題提起らしきもの
投稿者:sakamotomasayuk(坂本正幸) 日時:2014/10/24 11:23 ツイート: https://twitter.com/sakamotomasayuk/status/525472652207484928
袴田さん弁護団が反論書 - 朝日新聞デジタル http://t.co/c8QgLAG0L9
検察はねつ造の動機はない、と主張したそうだが、あの県警だし、しかも起訴した以上は有罪にする、ひっくり返されてはならん、という体質があれば動機は十分あるんじゃない?
誰も信用しないと思うけど

投稿者:sakamotomasayuk(坂本正幸) 日時:2014/10/24 11:25 ツイート: https://twitter.com/sakamotomasayuk/status/525473035885617154
検察も動機がない、なんて反論したら、動機がある、って反撃されて、必ずしも得策ではないと思うんだけどね。
犯罪者を作りだす組織だと思われたくないのはわかるけど。
でもポイントはそこじゃないだろう。
ほんとにねつ造があれば当時の関係者を非難してこそ信頼回復だろう。

投稿者:sakamotomasayuk(坂本正幸) 日時:2014/10/24 11:27 ツイート: https://twitter.com/sakamotomasayuk/status/525473504347435008
組織として「そういう空気」だったから無理やり犯人を作りだした、というのはあってもおかしくないだろう。
個々人が動機としてもっていなくてもそれがあったらそこが問題なのでは。

2014年10月13日月曜日

原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明 と社会的責任追及の必要性について 2014年10月8日

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"Title : 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月8日
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"Tags : 被告訴人安田敏,金沢市場輸送
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**** 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月8日
<2014-10-08 水 08:42> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

金沢市場輸送から守田水産輸送に行った谷内さんも守田水産輸送で持ち込みをやっていると聞いていました。谷内さんは昭和59年のスルメイカのシーズンに入社しました。たしか初めての運行で新潟あたりの比較的近場だったと思いますが同行したことがありました。

谷内さんは珠洲市若山の人だと言っていたと記憶にあります。大工をやっていたともいい。話しぶりからすると自分で工務店でも経営していたような感じでした。

珠洲市の若山というのは珠洲市の中心部飯田から輪島の方に向かうと大谷峠の手前の辺りです。大谷峠を超えると大谷の町に入りますが、そこは能登半島の先端部分で輪島市内につながる外浦という海岸線になります。

大工を廃業していわゆる出稼ぎに出るという話は、当時小木や姫、宇出津を中心に聴いていたことでした。小木港の遠洋漁業が大打撃を受け、その煽りを受けたかたちで他の商売が立ちゆかなくなったと聞きます。当時はソ連ではなかったかと思いますが、それら国際的な二百海里問題によるものでした。

姫は当時宇出津と同じ能都町でしたが小木とは連接し、小木とは別に遠洋漁業をやっていました。遠洋漁業の良い時期は、石川県で住宅の新築率が1位だったとも聞いたことがあります。私の同級生の家も真脇で大工をしていましたが、ちょうどその頃廃業したと聴いていました。

小木港や姫では遠洋漁船が拿捕され操業ができなくなったとか、銃撃を受けて人が死ぬような事件もありました。八千代丸という船です。

ネットで調べたところ第36八千代丸事件は昭和58年7月28日のことのようです。知り合いも一人乗船していたと聞きますが、水産高校での被告訴人安田敏の同級生です。私の記憶では姫の船と聞いていたように思うのですが、確認できる情報はみつかりませんでした。

宇出津は遠洋漁業ではなく地場の漁港ですが、それでも当時は町の半分の人が漁業の関係者だと聞くこともありました。私の友人知人も、小木や姫の遠洋漁船に乗り組む人が多かったです。また、珠洲市の方でも同様にけっこういると聞いていました。

当時の小木港は珠洲郡内浦町でしたが、珠洲市の中心部の飯田の方とはけっこう離れているので、私の感覚としてはさほど影響もなさそうには思えていたのですが、連鎖的な影響というのはかなりのものがあったのかもしれません。

当時は宇出津の崎山でも自殺や夜逃げが横行していると聞いていました。崎山は私が小さい頃は畑ばかりの風景だったのですが、その後造成が始まり、私が中学生の頃にはすっかり新興住宅地となっていました。住宅ローンの支払いができなくなったということなのでしょう。

私の家は漁業とは無縁で、当時は金沢市で生活をしていたので、具体的実感というのは余りなかったのですが、小木や姫の漁船が拿捕されたというニュースはテレビや新聞でも見かけていましたし、相当に深刻な死活問題という認識はありました。

年々遠洋漁船の仕事をやめて普通の仕事をするようになったという周りの話も聞くようになりました。「丘に上がる」というような表現もします。現在では中型イカ釣り船に地元の若者は少なく、若者はほとんどがインドネシアの研修生だと聞いています。

気になるのは福井刑務所で班長から聞いた話でした。まだT班長がいた頃で、その場にはその後任と綯った班長もいたのですが、そちらの方は急に名前が思い出せなくなっています。と書いているうちにそれらしい名前を思い出したのでY班長ということにします。

ほとんど同時のような会話の状況だったのですが、発言はY班長だったと思います。被告訴人竹沢俊寿について知っている話をきいたときのことでした。能登の方とかで金貸しをして儲けている、という内容でした。T班長もよく知っていると相槌をうつような感じでした。

T班長には直接、被告訴人安田敏のことを知らないかとたずねたこともありましたが、これは知らないと言われました。ちょっと答えにくそうな雰囲気も感じたので、どうかとは思っていたのですが、被告訴人安田敏本人がよく知っていると後日話していたので、本当の答えではなかったことになりそうです。

二人の班長とも被告訴人安田敏が以前片町でバーテンをしていた店の店主の友達とかでよく見せに来ていたという話でした。この会話も録音済みで、記録を金沢地方裁判所に提出している可能性があるかと思います。

あくまで被告訴人安田敏の話なので事実かどうかはわからないですが、被告訴人安田敏がいうにはT班長も元と言っていたようにも思いますが、暴力団員で滝本組の組員だという話でした。

Y班長の方は自分で元組員とか、本当は組員のままになっているが執行猶予をもらって少しでも早く出所するために、組をやめたと偽っているとか話していました。同じく滝本組と聞いていたようにも思いますが、紺谷組と聞いた風にも思うのです。あるいは昔、紺谷組にいたという話だったかもしれません。

Y班長とそういう会話をしている時、私は被告訴人安田繁克のことを思い浮かべていました。被告訴人安田繁克も暴走族のリーダーをやっていた他、ヤクザの組員をしていたという話もしていたからです。

被告訴人安田繁克のその時の話では、事務所の方に顔を出さなくなり自然消滅のようなかたちでヤクザをやめ、その後世話になった兄貴分のような人物に顔を合わせたけど、何も言われずに済んだと言っていました。平成4年2月1日の夜のことです。彼と膝を突き合わせるような会話をしたのはその時だけ。

T班長に被告訴人安田敏のことをたずねたのは、T班長が片町で有名な人物で薬物事件に関わっていたからです。T班長に関しては既に本書で取り上げているところがあるかと思いますが、平成13年頃には金沢刑務所で私の運転手仲間だったYKと6工場で仲良しになっていると聞いていました。

能登での金貸しの話に戻します。そういえばと思い当たることがありました。昭和61年の秋のことかと思います。

<2014-10-10 金 15:58> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明 と社会的責任追及の必要性について 2014年10月6日

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"Title : 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月6日
"Cats : 2014-木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)に対する告訴状(被疑事実殺人未遂)のブログ版
"Tags : 被告訴人浜口卓也,金沢市場輸送
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**** 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月6日
<2014-10-06 月 10:17> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

平成3年当時と現在とでは小木港の様子もずいぶんと違っていると思いますが、平成3年当時の私は金沢で生活していて実家の宇出津に戻るのも年に数回だったので、小木港に行くこともほとんどなかったと思います。

私が頻繁に小木港に行くようになったのは2010年の12月の20日頃からのことです。小木港の釣具店でアジング用の釣り道具を揃え、それからちょくちょくと小木港にアジを釣りに行くようになりました。

小木港では宇出津とは違い大きなアジが釣れるので、宇出津でも小木港までアジ釣りに行く人がいるとは聞いていたのですが、いくら魚が釣れても小木港まで行く気にはさらさらなれずにいました。

その2010年の9月の初めからはアオリイカ釣りを始めていました。アオリイカも小木港のほうがよく釣れるとは聞いていましたが、バイクで小木港まで行く気にはさらさらなれずにいました。

アジ釣りを始めた当初が、アジングでも大きなアジがよく釣れ、脂が乗って味がとても良かったのです。それまで食べてきたアジという魚の味の認識を根本から変えるような味でした。

また、小木港でアジ釣りをしていると昭和50年代、60年代の交友関係、友人関係についても記憶の喚起に役立つと思うようなこともあり、雪の降る寒い中大変ではありましたが、バイクで小木港に通うようになりました。

既に何度か書いていることだと思いますが、昭和の時代の小木港は遠洋漁業が盛んで、船の数も多く、遠洋のイカ釣り船と北洋のサケマス船がいました。サケマス漁の方は、「中部船」と呼ばれ、船体の色がオレンジ色になっていました。

小木港は今でも「イカの町」という看板が出ているほどイカ漁と縁のある町ですが、そのイカというのが船凍イカです。

船凍イカ - Google 検索 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E8%88%B9%E5%87%8D%E3%82%A4%E3%82%AB

上記のように検索をかけると、出てくるのはほとんどが小木港に関する情報のようです。

小木港の船の数は昭和の時代に比べ激減していますが、今も遠洋のイカ漁は続いていて、宇出津のスーパーにも小木港の船凍イカは売っています。6月頃に出漁して12月に戻るという遠洋漁業の基本もほぼ同じかと思われますが、今はそれ以外の時期でも小木港で中型イカ釣り漁船の姿をみることもあります。

とにかく平成3年ころの小木港の様子というのが私にも想像がつかないのですが、二百海里問題以降、衰退はしていたもののまだ現在よりは船の数もイカの水揚げも多かったのではないかと想像されます。

とにかく金沢市場輸送では小木港に船凍イカを積みに行くことは一度もありませんでした。古い運転手の話では以前は行ったことがあるというような話を聞いたような気もするのですが、記憶は曖昧です。

金沢市場輸送では浜田漁業金沢工場のイワシの運搬以外では、殆どに近く能登の方に仕事に行くことはありませんでした。正月明けに蛸島港にイワシの鮮魚を積みに行ったぐらいです。あとたまに行くのは七尾市の市場ぐらいでした。果物を持っていくような仕事でした。

七尾市の方によく行くようになったのは市場急配センターで、平成3年の秋11月ころからのことですが、これは被告訴人東渡好信が配車係になったことと、その被告訴人東渡好信の口ききらしく七尾市の丸一運送の仕事をするようになったことがきっかけです。

行き荷のほとんどが七尾市だったようにも思います。積み込むのは七尾市の、能登木材の製材か、林ベニヤのベニヤ板のどちらかでした。積み荷の行き先はすべてが関東だったと思います。

帰り荷としても丸一運送の仕事と聞く、和歌山県かつらぎ町からのミカンが多く、手作業で他の運転手が嫌がる仕事だったので、私には個人的に集中的に回ってきていたようでもありました。これは小松市と七尾市の2箇所降ろしが多かったように思います。七尾市は必ずだったとも思います。

序に書くと、平成4年の2月ころからは石灰を積んでくる仕事があって、それも丸一運送の仕事だと聞いていました。私は栃木県の葛生市の山の方から3,4回、岐阜県の大垣市の山の方から2回ほど運んだように記憶しています。卸先は七尾市内、田鶴浜町、松任市の駅の近くがありました。

本書でも既に書いているところがあるかと思いますが、今年の8月の下旬にバイクで七尾市に行った時、田鶴浜町の国道沿いに、橋本商事という看板の出た倉庫が、当時と同じように存在していました。

そういえば今朝の10時過ぎの石川テレビの番組だったと思いますが、七尾市の市政10周年とかやっていました。旧七尾市、田鶴浜町、能登島町の合併になっていたように思います。中島町も現在は七尾市になっているような気もするのですが、田鶴浜町が以前七尾市とは別だったとは少々意外でした。

なお、金沢市から七尾市に向かうには能登有料道路を千里浜インターで降りて向かうことが多かったように思いますが、行き先が関東だと、そのまま海岸線の国道で富山県に入って氷見市から高岡市の国道8号線に出ていました。

国道160号線ということになるかと思います。石川県七尾市内から富山県高岡市につながる国道で、県境から氷見市の手前辺りまでは海岸線がほとんどだったように記憶しています。

富山県内を走る高速道路つまり北陸道は、石川県との県境から山の方を走り、国道8号線からも離れていました。滑川インター辺りになると国道8号線には近くなっていましたが、ほぼ交わるのは富山県で新潟県の県境の最終になる朝日インターでした。

昭和59年当時はその朝日インターが北陸道の最終インターで、新潟県の上越インターまでは高速道路が未開通になっていました。対面通行でトンネルも多かったですが、その間が開通したのは昭和63年ぐらいかと思います。

昭和60年の時点では関越道も湯沢インターが最終になっていて、その翌年ぐらいに開通したと記憶にあります。日本一長いという関越トンネルの開通でした。

その昭和60年か昭和61年の冬に、中西運輸商の4トン車で一度、湯沢インターから三国峠の国道18号線を走ったことがありました。トラックにはすれ違いも困難な狭いトンネルがありました。カーブも多くてずいぶんと時間がかかったように思います。

馬鹿のように時間も掛かったので、二度と通りたくはないと思うような三国峠でした。その昭和60年以来ということになるのかはわかりませんが、数年ぶりに通ったのが平成4年の2月の終わりか3月の初めのことで、大雪で関越道が通行止めになったために、しかたなく三国峠を走ることになったのです。

七尾市降ろしの石灰を栃木県葛生町から積んでいた時だったと思います。三国峠など国道18号線の方も渋滞がひどくて、湯沢インターのあたりに出たのは翌日の昼頃にもなっていたと思いますが、午後の明るい時間のうちには七尾市で荷物を降ろすことが出来たようにも記憶にあります。

その時は七尾市内の丸一運送の会社の方で、他のトラックに石灰の荷物を積み替えたか、パレットで仮置きをしたように思います。丸一運送の会社にはこの時を含め、2回かあるいは3回行ったことがありました。

どの時だったかわかりませんが、丸一運送の配車係か事務所の幹部社員のような年配の人がいて、被告訴人東渡好信のことをよく知り、あるいは心配するような感じで話をしていました。幼なじみとも思えるような親しく長い付き合いの関係にも見えました。

時期的に、被告訴人東渡好信が失踪をするような不可解な行動をやっていた時期に重なるかとも思いますが、そのことを案じて、私に声を掛けていたようにも思います。やはり心配するような表情であったと今はぼんやりした場面になっていますが、記憶に残っています。

被告訴人東渡好信に関しては後回しにして、今は被告訴人安田敏に関する説明をメインにしています。

七尾市から国道160号線で高岡市の国道8号線に出ると、私は小杉インターから北陸道にのることが多かったと思いますが、その時の気分では滑川インターまで行っていたかもしれません。小杉インターは富山インターの一つ手前で、富山インターの一つか二つ先が、滑川インターだったと思います。

市場急配センターでは基本的に高速道路は自由に利用ができていましたが、被告訴人東渡好信が節約とか言い出して、新潟県上越市から山の中の国道を走って、六日町インターから関越道にのることもありました。その道は金沢市場輸送に頃にもたまに使っていました。

Googleマップで確認したところ国道253号線になるのかと思います。松代とか十日町を通って、六日町の町の手前から関越道にのっていたように思います。3桁の国道でしたが、割と広い道で、豪雪地帯でしたが、特に難所はなかったように思います。

金沢市場輸送の頃は、六日町インターから関越道にのると、群馬県内の花園インターで降りることがほとんどだったとも記憶にあります。茨城県水海道市にアルミサッシを運ぶ仕事が多かったとも思いますが、埼玉県桶川市から移転した新しいアルミサッシの配送センターのような倉庫でした。

Googleマップで確認したところ水海道市は現在、市町村合併で常総市となっているようです。谷和原インターというのも思い出しました。アルミサッシの荷降ろしを終えた後、よく利用していた常磐自動車道のインターだったと思います。

その谷和原インターの近くに最後に行ったのは、被告訴人浜口卓也と一緒に日清製粉の工場に行った時でした。平成3年の11月の中頃ではなかったかと思います。

日清製粉という社名になっていたように思いますが、カップ麺でお馴染みの会社です。国道6号線で取手市だと思いますが、茨城県内に入るとすぐ左側に日清製粉の目立つ工場か倉庫のような建物があることは、以前からそこを通って知っていました。

仕事でその取手市の日清製粉に行ったのは初めで最後だったのですが、富山県の富山市の郊外に位置する富山インターから国道41号線を岐阜県の方に向かって3,40分ほど走った辺りで積み込んだカップ麺の容器のような荷物を積んでいました。

被告訴人浜口卓也とは午後に金沢を出発して、私は富山インターで降りて荷物を積みに行ってのですが、被告訴人浜口卓也はその先のサービスエリアで私が来るのを待っていたように思います。彼も自分の担当になった大型ウィング車に乗務していました。

被告訴人浜口卓也がどんな荷物を積んでいたのか憶えてはいませんが、とにかく一緒に茨城県取手市の日清製粉に行き、国道6号線沿いの日清製粉のすぐそばにトラックを駐めて、どちらかのトラックの中でコンビニで買った弁当を食べながら一緒に話をしながら缶ビールを飲んでいたことを憶えています。

被告訴人浜口卓也も日清製粉の荷降ろしだったと思うのですが、荷物の積み込み先が違っていたか、積み込んだ日が違っていたようです。

茨城県取手市の日清製粉で荷降ろしした後のこともよく思い出せないのですが、私は谷和原インターの付近を懐かしいと思いながらトラックで走行していた場面の記憶は残っています。

私は同じ茨城県の古河市の市場に行った可能性が高いかと思いますが、被告訴人浜口卓也とは別行動の仕事になったと思いますし、そもそも古河の市場で被告訴人浜口卓也と一緒になったことは、一度もなかったようにも思います。

古河の市場の山三青果の仕事はそもそも市場急配センターの仕事のメインだったのですが、私は被告訴人安田敏とも古河の市場では一度も一緒になることがなかったようにも思います。

山三青果の定期便の運賃は大型車で12万円とも聞いていたように思います。もとは平成2年の12月頃から金沢市場輸送に市場急配センターが請け負わせていた仕事だったのですが、運賃がよく売上がいいので、金沢市場輸送に任せるのが惜しくなったという話を聞くこともありました。

本書でも既に説明しているところがあるかと思いますが、金沢市場輸送でやっていたころは、日通高柳店からの埼玉県岩槻市、千葉県千葉市の二箇所降ろしの日通の定期便と、小松店、金沢店の二箇所積みでの栃木県宇都宮市へのトナミ運輸の定期便というほぼ同時期の二つの定期便とセットになっていました。

日通やトナミ運輸では、他に福岡への定期便や仙台への定期便もやっていたので、記憶が混同している部分もあるかもしれませんが、仙台への日通の定期便は、富山県高岡市だったと思います。

富山中央店からの福岡への定期便はウロコ運送との一日交代で前からやっていましたが、西インターの金沢店からも福岡への定期便をするようになっていたかと思います。富山中央店からの定期便とは違い、片道だけの定期便だったとも思います。

その頃は仕事が多いピークの時期だったとも思いますが、すべて金沢市場輸送のトラックでやっていたわけではなく、傭車と言い他の運送会社のトラックを使うことも多くなっていました。

特に多かったのは富山県氷見市の堀安商店という運送でした。大型車4台程度の小さな運送会社でしたが、緑ナンバーだったと思います。もともとは鮮魚専門のような会社でした。

堀安商店の方は、逆に仕事をもらうこともあって、氷見の漁港に鮮魚を積みに行くことがありました。東京の築地が多かったと思いますが、一度、シイラを満載にして福岡と熊本まで運んだことがありました。シイラは全国的にも人気がない魚で、買い手がないという話も聞きました。

堀安商店には3,4人の顔なじみの運転手がいたと思います。6トン車も一台はいたようにも思います。堀安商店の会社にも行ったことがありました。堀安商店の運転手とは福岡の魚市場で顔を合わすこともよくあったように思います。

同じ時期、傭車でよく金沢市場輸送に来ていたのは小木運送の新出さんでした。新出というのは小木や越坂に多い名前でしたが、一度聞いた話では珠洲市の若山に家があると話していました。

その頃は金沢市や県外の方で小木運送のトラックを見かけることも割と多かったように思いますが、金沢市場輸送に傭車として出入りするのは新出さんだけでした。新出さんは10トン車に乗務していましたが、他の小木運送のトラックでは6トン車を見かけることが多かったようにも思います。

小木運送という名前で運送会社のようですが、会社としてのシステムやあり方は、普通の運送会社とは違っていて、小木港での船凍イカの仕事が暇な時期は、自分で仕事を探してきてやりくりするしかない、というような話も聞いていたように思います。

小木運送でも新出さん個人との仕事のやりとりという感じでしたが、金沢市場輸送では小木運送の仕事をすることもなかったし、既に書いたように小木港に仕事に行くことも一度もありませんでした。

被告訴人本恒夫と新出さんとの個人的な関係と言ったほうが良いかもしれません。どこでどのように知り合い、傭車をするようになったのか具体的なことを聞いてはいないようにも思いますが、新出さんとは個人的に話をする機会も割と多かったので、憶えていないだけで聞いていたこともあるかもしれません。

越坂出身だと聞くKSさんも小木運送で大型車に乗務していたと聞いていましたが、その時期というのははっきりしません。同じぐらいの年の女の人と結婚をしていましたが、その妻というのは小木運送の金沢の支店で事務員をしていたと聞きました。

妻は金沢市の出身とうことで、何かの機会にその実家という家に遊びに行くこともありました。西念町でしたが、中央市場からは離れた場所で、北安江に近かったと思います。

KSさんと初めて会ったのは昭和59年の6月だと思います。金沢港のスルメイカの仕事では山形県の酒田市に行くことも多かったのですが、一度、珠洲市三崎のHMを連れて行ったことがありました。たぶん彼は失業中だったと思います。

酒田市は山形県でも日本海側にあります。その帰りだったと思いますが、新潟県の柿崎町から上越市に入った辺りの国道8号線沿いに、右手にラーメン屋がありました。そのラーメン屋で一緒になったのが越坂のKSさんでした。

その時、越坂のKSさんは中西水産輸送の10トン車保冷車に乗務していました。中西運輸商と大書きした2台ある保冷車の一台でした。いずれも日産ディーゼルのトラックで見た目はほとんど同じだったと思いますが、中身はずいぶんと違うものになっていました。

その一台というのは10トン車の車体に、トレーラーのエンジンやミッションを搭載したものでギアが10段あるものの、ギア比が低いため最高速度が90キロしか出ないというような話でした。

同じ頃ではなかったかと思いますが、宮城県の石巻の冷蔵庫で、中西運輸商の保冷車と一緒になり、その積み込みを手伝ったり、話をしたことがありました。当時の長距離トラック運転手としては最高齢に近く、50歳近いような話でした。現在の50歳の感覚とはまるで違います。

名前の方は思い出せなくなりましたが、珠洲市の鵜飼辺りの出身とも話していたと記憶にあります。ちょっと風変わりな人でしたが、サウナに寝泊まりしながら生活しているとも話していました。

その時も冷凍のエサを保冷車に満載にしていました。段ボールケースにも入っていない小魚の冷凍で、メギスのような色の悪い小魚の冷凍物であったとも印象に残っています。

昭和59年で私が金沢市場輸送の4トン保冷車に乗務していた頃のことですが、その頃、石巻に行ったのは2,3回だけだったと思います。その一度は、既に書いていると思いますが、被告訴人大網健二と生マグロを積みに行った時のことで、興勝運輸の仕事でした。

興勝運輸は飾りの多い立派なトラックでしたが、会社の方は石巻港でもずいぶんと離れた場所にありました。昭和61年頃にはすでに倒産して会社がなくなったと聞いていました。

その石巻の冷蔵庫で一緒になったのがトレーラーのミッションをつけた10トン車だったと思います。その運転手の人も、私が中西運輸商で4トン車に乗務していた頃に、しばらく会社に戻って同じトラックに乗務していたことがありました。けっこう気ままに出入りを繰り返しているような話でした。

印象に残っているのは冬だったと思いますが、中国自動車道を走行中にトラックのフロントガラスが全部割れ、顔にタオルを巻きつけて走ってきたと話していたことです。

越坂のKSさんは私より年が3つか4つ上だったと思います。初めは金沢市場輸送で4トン車に乗務していたとも聞いたように思いますが、水産高校を卒業したばかりの蛸島のTSさんと一緒だったとも聞いていたように思います。

すでに書いているかと思いますが、蛸島のTSさんが水産高校を卒業したのは昭和56年のことで、それは私が小木分校を中退して、金沢市に出た年と同じでした。

被告訴人大網周一と二人でいたところ、蛸島のTSさんが運転するジャパンというスカイラインだったと思いますが、それに乗せてもらい、問屋町のガソリンスタンドの寮まで送ってもらったことがありました。その時、助手席にいたのが当時は名前の他あまりしらなかった被告訴人安田敏でした。

そういえばということで思い出したのですが、金沢市場輸送で傭車の仕事をするようになった当初の越坂のKSさんは、中西運輸商でトレーラーのミッションをつけていた10トン車を払い下げで買い受けて、それに乗務していたように思います。

バイクの改造車のように自分でスプレーで塗装したようなボディのカラーになっていて、中西運輸商のトラックという面影はなくなっていたとも思いますが、そういうふうに聞いたように思い出しました。

私の記憶も薄くなっていて余り自信は持てませんが、初めはやはりその10トン車だったとして、金沢市場輸送での傭車の仕事をするようになってからは、そう長い間その10トン車には乗務しておらず、まもなくトレーラーに買い換えていました。

トレーラーの本体は新車だったと思いますが、荷台の保冷の箱の方は古い中古の物を使っていたように思います。10トン車もそのトレーラーも白ナンバーだったと思います。

個人の持ち込みという言い方もされていたかと思いますが、越坂のKSさんが独立して個人のトラックを保有するようになったのは、石巻からエサを運ぶ仕事がしたかったからだと話していました。初めは興勝運輸から仕事をもらっていたとも聞いたようにも思いますが、これも私の記憶がぼんやりしています。

とにかく昭和59年ころまでの大型保冷車の仕事というのは、エサの仕事が多かったと聞いています。私が金沢市場輸送で大型保冷車に乗務したのは昭和62年4月のことで、その頃のはエサの仕事自体がほとんどなくなっていて、私自身、エサの仕事というのは一度もすることがありませんでした。

話としては年配の運転手からよく聞いていたのですが、主に石巻港の冷蔵庫からエサを満載に積み、それを鹿児島県や宮崎県あるいは大分県のハマチの養殖場まで運ぶという仕事で、四国の宇和島の方にも行くとも聞いていました。

たいていは片道一週間ほど掛けて、大半はフェリーに乗って、のんびりと運ぶ仕事で、月に4回ぐらいしか出来ないけど、そこそこ収入にもなるような話でした。

本来は大半をフェリーの利用にするというのが常識だったようですが、それを全線高速道路でやろうと考え、トレーラーのエンジンやミッションに改造することを考え、実行したのが中西運輸商の社長の発想だと聞いていました。箱の方も丸みを帯びて変形していたような記憶があります。

これもそういえばということになるかと思いますが、越坂のKSさんは、金沢市場輸送で姿を見かけなくなってしばらくしてから、輪島屋鮮冷の仕事をしているらしいと聞いたようなことも思い出しました。

金沢市場輸送では基本的に鮮魚の仕事が多かったので、KSさんとしてはそれも好きではなかったようです。トレーラーがスピードの出せるものではなく、時間に遅れてしまうことを気にかけていたのかもしれないですが、冷凍物を運ぶのが好きだったようです。

金沢市場輸送では妻子を連れて会社に来ていることも多かったKSさんですが、蛸島のTSさんが自殺をしたという新聞記事が出た時は、他の誰よりも驚き、ショックを受けた様子に見えました。その時は珍しく金沢市場輸送の事務員のいる事務所の中にいて、そこには竹林と大西さんの姿もありました。

他の女性事務員などの姿が見えなかったようにも記憶の場面にはあるので、今考えるとそれは休日だったのかとも思えます。午前中の朝に近い時間だったとも思いますが、そんな時間に運転手が集まっていたというのも、あまりないことかとも思います。

私も朝アパートで新聞を見てその自殺のことを知ってから会社に行ったのですが、朝の早い時間での出社というのも金沢市場輸送では余りなことであったように思います。夜から深夜の時間の仕事が多かったので、そうなるわけです。

運転手は運転手の控室のような部屋があり、勝手口のような出入口があって、ほとんどはそこから出入りをしていました。事務所の方に人が集まっていたのは、あるいは新聞記事を見るために新聞のある事務所の方に集まっていたのかもしれません。

エサの仕事というのはキロあたりの運賃になっていると聞いていました。いい時期はキロあたり20円からそれ以上と聞いていたようにも思いますが、それが12円ぐらいまで下がっていると聞いていたようにも思います。

30トンでざっと計算すると単純に片道60万円という運賃になりそうです。フェリー代などの経費も必要だとは思いますが、フェリーに乗っている分には燃料代も浮きそうです。慣れたらやめられない仕事だと聞くこともありましたが、重量オーパーで捕まる危険も高く、事故の危険も高くなります。

私は4トン車でもブレーキーが焼けて煙が上がるという経験を何度かしているので、よくわかるのですが、運転は下り坂の場合特に神経を使うというより神経をすり減らします。運転技術と腹のすわった注意力も人一倍必要になるかと思います。一度加速がつき過ぎたらその時は終わりかもしれません。

エサの仕事がなくなったとか運賃が安すぎると聞くようになってからは、全体的な運送の仕事が増えていきました。ちょうど日本の国全体がいわゆるバブル景気へと突入していた時期になるのかと思います。

仕事はいくらでもあると言われるような時期になり、そのうち傭車と言って、実際の仕事だけを他に請け負わせて手数料をとるという仕事も増えていったようです。時代の先を読んでいたのか、それを先駆け徹底していたのも中西運輸商かと思います。

既に書いているかと思いますが、自社のトラックや運転手ですら傭車の一部のような扱いの別会社として中西水産輸送にしていると聞き、傭車など配車の手配を主体とする会社を中西運輸商という会社にしていると聞きました。どちらも有限会社ではなかったかと思います。

中西運輸商の真似をしたのか参考にしたのかもわかりませんが、金沢市場輸送の本恒夫も規模は小さいものの似たようなことをやって、傭車に仕事を回すようになっていきました。

そして金沢市場輸送の運転手の中でもトラックの払い下げを受けるなどして、持ち込み運転手として仕事を請け負おう運転手も何人か出てきました。きっかけは持ち込み制度を先駆けていた守田水産輸送の引き抜きでもめたことだったと思います。

<2014-10-08 水 08:41> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明 と社会的責任追及の必要性について 2014年10月2日

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**** 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月2日
<2014-10-02 木 20:54> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨日になりますが、小木港にアジ釣りに行ってきました。次が昨日現在の能登町小木港の写真です。以前は珠洲郡内浦町小木でした。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/10/02 20:53 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/517643657050980352
2014-10-01 14.42.47.jpg http://t.co/3ML0nU8aZ9 

小木港に行ったのは本年9月15日以来で、ちょうど半月ぶりになるかと思います。小木港では9月15日はちょっと特別な日で、アオリイカ釣りの解禁日です。解禁を設けているのは私の知る限り、小木港だけです。

その前回の時も同じだったと思いますが、大雨の影響と思われ、姫と小木の間の古いトンネルが通行止めになっていました。迂回するのは比較的新しい道で、新しく出来たトンネルもあります。

トンネルの出口の方の壁に刻印があって、確認すると平成6年12月完成とありました。なるほど平成4年以前は開通していないトンネルで、古いトンネルが主要道になっていたようです。

古いトンネルは現在もそのままかと思いますが、道幅が狭く乗用車でもどちらかがトンネルの手間で待機して、トンネル内を対面通行ですれ違うということがありません。

そのトンネルは高さも低いため、大型車の通行はかなり困難かと思いますが、昭和の時代など以前はその道しかなかったので、大型車でも通行をしていました。多分になりますが、車検が通る限界の3.8メートルの高さでは、トンネルに入ることが無理とも考えられ、そう聞いたような記憶も少しあります。

現在その古いトンネルは大型車が通行止めになっていて、4トン保冷者でもその古いトンネルを通行するのを見かけることはありません。

<2014-10-06 月 10:16> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明 と社会的責任追及の必要性について 2014年10月1日

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<2014-10-01 水 07:36> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

いつ頃から輪島屋鮮冷のトラックが金沢市場輸送の仕事をするようになったのか、はっきりとは思い出せないのですが、なにがきっかけで仕事上の付き合いが始まったのか、話を聞くことはなかったし、運転手の間で話題になるようなこともなかったと思います。

輪島屋鮮冷と金沢市場輸送の関係については話を聞かなかったのですが、輪島屋鮮冷という会社に関しては運転手の間で話題になり、話を聞くことがありました。幾つか話を聞きましたが、どの話を誰から聞いたのかとなると、はっきりしないところがあります。

輪島屋鮮冷というのは、その名の通り同じ石川県の能登半島にある輪島市をイメージする人が多いかと思います。もうひとつは私が中学生の頃の昭和50年代前半に大相撲で北の湖とともに横綱として活躍した石川県出身の横綱輪島がいました。

私自身も昔は普通に輪島という名前の通り、輪島市出身の人物かと思っていたのですが、そのうち誰かから七尾市の石崎の出身だと聞きました。意外感もあったので、石崎のことも併せてよく憶えています。

輪島大士 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E5%A3%AB

上記ページに詳しい情報がありました。思っていたよりまだずいぶんと若く、昭和23年生まれの66歳とのことです。姉か妹の金銭問題が大きく取り沙汰されていたのは、やはり昭和57年ころとなりそうです。

金沢の片町に「相撲茶屋輪島」という店を姉か妹が開き、それがトラブルの原因になったとか、閉店したとか聞いていたように思います。バナナビーチというディスコがあったビルと同じか、隣接したビルの一階にある店だったと思います。

ついでになりますが、その「相撲茶屋輪島」があったと思われるビルのあたりでは、昭和61年の年末に、金沢市場輸送で忘年会が開かれたことがありました。元は同じ店だったのかもしれないと思っていました。「雪国」という演歌の曲が流行っていた頃のことです。

それと同じビルか、もうひとつスクランブル交差点側のビルの3回ぐらいの若者向けの飲み屋では、被告訴人大網健二の結婚式の打ち上げがありました。生のバンド演奏もあったように思いますが、そういう雰囲気の店でした。

その店の方では結婚式に出席していなかった友人も集まっていて、その中には後に片町の飲み屋を舞台にした薬物売買で逮捕されたと大々的に報じられたOYの姿もあったと思いますし、薬物犯罪の舞台になったという片町の飲み屋かディスコも、同じ辺りの場所だったという私のイメージになっています。

平成9年か平成10年に、被告訴人KYNが、そのOYのことを、連中はもっと悪どいことをやっていると言いながら、薬物売買の事件のことを吐き捨てるように話していたことは印象的なのですが、その薬物事件の時期というのは、私の記憶がはっきりとせず、まだ調べていません。

私がOYと会ったのは、私の長距離トラックの仕事が忙しくなってからで、多くて4,5回程度ではなかったかと思います。その殆どで東力の「かつとし」がいたように思います。ずっと気にかけているのですが、未だに上の方の名前を思い出すことが出来ません。

「かつとし」は大柄な体格だったと思います。父親が日通の幹部社員のように聞いていたようにも思います。既に本書でも触れたことがあると思いますが、「かつとし」という名前は出してはいないと思います。OYと違い、名前を思い出せないので、特定が困難です。

OYもかつとしも、同じ歳の同級生だと聞いていたように思いますが、他にも関係性などいろいろ聞いていたように思いますが、思い出せることはほとんどありません。

最後に東力の「かつとし」の話を聞いたのは、会社を定年退職した父親と一緒という話だったようにも思うのですが、その退職金とかで、金沢市の大額の大通りに居酒屋のような店を出したという話でした。

金沢市三馬の方から四十万にその大通りを向かうと、左側に店がありました。私はその店を見ていますし、一度店にも入ったような気もするのですが、実際に店に入ったのか、店の中の様子を想像した場面だったのか、記憶がはっきりしなくなっています。

店の名前はよく憶えています。とてもわかりやすい平仮名二文字の店の名前だったからです。「輪島」にもイメージがゆく店名ですが、名づけた理由などに関しては話を聞くことはなかったように思います。

3,4ヶ月ほど前になりますか、その店の名前で検索をしたことがあったのですが、同じ名前の店は出てきたものの、金沢市内でも西金沢駅に近い辺りだったように思います。

「さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。」(前出のWikipediaページからの引用)

昭和61年5月ということで上記の問題は、私が被告訴人安田敏を頼って岐阜県海津町に行くより前ということになりそうです。同じ年にプロレスに入り、更に読むと昭和63年12月に引退したようです。

輪島屋鮮冷の4トン車で長距離乗務をするようになっていた珠洲市三崎のHMが、元横綱輪島の不祥事が世間の注目を集めていた時期で、東京都内を輪島屋鮮冷のトラックで走行していると、信号待ちで注目されることが多くて恥ずかしい、と話していたことがありました。

何度か書いていると思いますが、珠洲市三崎のHMは、輪島屋鮮冷と守田水産輸送の間を何度か、行き来していました。

守田水産輸送は金沢市西念の中央市場の前に会社があって、中央市場のなかでの仕事が多かったので、ちょこちょこと顔を合わせることはあったのですが、輪島屋鮮冷のトラックを中央市場のなかで見ることは、ほとんどなかったように思います。

金沢市場輸送と同じ保冷車でも、鮮魚を積むことはほとんどなく、冷凍物がほとんどだと聞いていましたが、目一杯重量を積んでいるとも聞いていました。これは守田水産輸送の4トン車と同じでした。守田水産輸送の場合は鮮魚の定期便もやっていたという違いはあります。

金沢市場輸送でも冷凍物は運んでいましたが、割合は少なかったです。ここでは冷凍食品と冷凍物の違いを、私独自の視点から説明したいと思います。

冷凍食品も運ぶことがありましたが、私の経験ではどんな冷凍食品でも割と軽いもので、かさもあるので満載にしてもさほどの重量にはならなかったと思います。

例えば、下関から珍味の原料となるカワハギの冷凍を運ぶことがありましたが、個々のケースは割と重みがあると思うものでも、満載に近くして18トンぐらいだったように思います。

重みのある冷凍物は、イカや蒲鉾の原料となる鱈の冷凍すり身でした。イカは外国からの輸入のものがほとんどだったように思います。蒲鉾の工場は、金沢や富山の市場の近くにもありました。

重量で言えば、冷凍の牛肉も重かったですが、当時は輸入の肉を運ぶということもたまにしかなかったように思います。ブロイラーと呼ばれる鶏肉は昭和59年ころは、金沢市場輸送でよく運んでいました。あれは余り重くはなかったような気もします。

守田水産輸送や輪島屋鮮冷の4トン車では、8トンから10トンの積載をすることが多いと聞いていました。当時の4トン保冷者というのは正味3トンも積めなかったと思いますので、普通に2台分から3台分の荷物を一台で運んでいたことになります。

輪島屋鮮冷に関しては、何を主に運んでいるのか、よくわからなかったですが、それだけの重量となると普通の冷凍食品とは考えにくいと思っていました。トラックもよく見かけていましたが、冷蔵庫のほかは特定の会社とかは余りみなかったように思います。

誰から聞いたのか思い出せなくなっていますが、輪島屋鮮冷の社長というのは、丸西水産輸送で配車係をしていたといい、元は運転手をしていた大きな事故を起こし、飼い殺しの状態になっていたとも聞いていたように思います。伝聞なので情報の正確性も不明ですが、聞いたのは一人で一度だけ。

親戚に大手の冷凍食品会社の幹部社員というか上の立場の人がいて、その取引関係をつてに独立して輪島屋鮮冷を始めたとも聞きました。ニチレイと聞いたようにも思いますが、これも真偽は不明です。

私の経験としては初めに輪島屋鮮冷の4トン車を見かけるようになったのは、前にも書いているはずですが、金沢港の県漁連の前でした。食堂の前辺りだったと思いますが、いつものように2台か3台の同じ輪島屋鮮冷の4トン車が駐車していました。

ただ、売り場の方でスルメイカというか鮮魚を積み込んでいるような状況は見た記憶がなく、その辺りもちょっと不思議に感じていました。富来の西海港の「牛若丸」という4トンの白ナンバーの保冷車が駐車していた場所と時期も重なるように思います。

輪島屋鮮冷の4トン車は普通の保冷車で保冷の箱の容積が他より大きかったとは思えませんが、冷凍食品だとどれだけ満載にしてもさほどの重量にはならず、せいぜいで5トンぐらいではなかったかとも思われます。

冷凍食品といってもいろいろとありますが、私もいろいろの冷凍食品を積み込み取り扱った経験があり、普通に考えてもずっしりと思い氷の塊のような冷凍食品というのは、加工食品として考えにくいと思います。

重量のある冷凍物として有名だったのは今もありますが、宇出津に近い小木港の船凍イカ(船内凍結イカ)でした。私自身、小木港に船凍イカを積みに行く機会は一度もなかったので、実際に小木港から運んだことは一度もありませんでした。

小木港には今もあると思いますが、小木運送というトラックがあります。緑ナンバーの運送会社のようになっていましたが、実質は運転手が個人でトラックを保有し、会社としての名義で緑ナンバーを取得しているような話になっていました。

私がトラック運転手を始めた昭和59年には、白ナンバーの社会問題は過去のものになっていましたが、以前はいろいろと問題にされ、摘発にもなっていたと聞いていました。

中西水産輸送もその白ナンバーの問題で摘発され、会社が潰れたと聞いていました。復活した中西水産輸送では佐川急便の雑貨の仕事をするようになっていました。物置にされたいた古い保冷車の箱には大洋マルハとか書いてあり、マルハの冷凍物を運んでいたとも聞きました。

<2014-10-02 木 20:40> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明 と社会的責任追及の必要性について 2014年9月25日

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<2014-09-25 木 09:13> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

記述は9月19日の続きになるかと思います。丸西水産輸送の社長の射殺の事件は北國新聞によると、場所が片町でもラブロ裏、新天地と呼ばれる辺り、ということになっていました。

この新天地という地名ですが、私はけっこう最近になって知りました。インターネットで石坂について調べていたところ、その新天地なる場所の情報が出てきたのが初めてでした。石坂については本書で、何度か取り上げていると思います。被告訴人竹沢俊寿の家があると聞く、辺りでもありました。

金沢市片町 新天地 - Google 検索 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82%E7%89%87%E7%94%BA%E3%80%80%E6%96%B0%E5%A4%A9%E5%9C%B0

上記のキーワードで検索をするといろいろ情報が出てきましたが、やはり平成3年12月21日の夜に、被告訴人浜口卓也に連れて行かれた確かおでん屋のような店のあたりということになりそうです。

片町でも私はほとんど足を踏み入れたことのない場所でした。もう少し香林坊の映画街の方に行くと、車でよく通行していた長町の方に出る裏道のような狭い道路があったとは記憶しています。

長町の辺りというのは、武家屋敷があってちょっとした観光地のようにもなっていると思いますが、その辺りは市内配達の仕事でも、通行することがありましたので、土地勘もあったつもりですが、余り行くような場所ではなかったです。

自分の場合、市内配達でも片町は受け持ちのコースだったので、他の辺りの小路は配達のトラックでもよく通っていました。竪町の長崎屋というスーパーにもちょくちょく配達に言っていましたし、スナックのような飲み屋でもフルーツにするような果物を配達するような店もあったかと思います。

被告訴人安田敏が最初に片町でバーテンをしていたという「ハートブレイク」という店に関しては、彼の説明を聞きながら、ラブロの裏の辺だという認識でいました。

一方で、その後でバーテンの仕事をやっていたという「ラバズバ」という店は、被告訴人安田敏の話しぶりによると、片町でも外れの方で、竪町から金沢市役所の裏の辺りと聞いていたように思います。

竪町の周辺というのはファッション関係の店も多く、若者が多く集まる場所というイメージがありますし、実際に行くと見かけるのは若者の数が多かったと思います。市役所の近くでもあったので、そういう用事なので、幅の広い人が集まるイメージもありました。

私がその辺りにちょくちょく行っていた頃というのは、まだ石川県庁も金沢市役所の道路を挟んで斜め向かいあたりにあったので、県庁が鞍月の方に移転してからは人の数も減ったり、その辺りの雰囲気も変わってはいるのかもしれません。

いずれにせよ、被告訴人安田敏は「ラバズバ」という店の場所について、やたらと詳しく具体的に説明をしていたと思いますが、私の記憶が薄れてはっきりしなくなっている部分もあります。

「ラバズバ」という店については、被告訴人安田敏が市場急配センターで市内配達の仕事をするようになってから話を聞くようになったはずです。

そもそも被告訴人安田敏から連絡があったのはゴールデンウィークの少し前で、平成3年の4月の下旬だったと思います。4月の終わりから連休が始まるはずですが、その直前には、被告訴人安田敏の金沢市場輸送への入社が決まっていたという記憶があるからです。

夕方でも遅い時間で外もすっかり暗くなっていましたが、金沢市場輸送の運転手の休憩室の外から入ってすぐの机の場所で、被告訴人安田敏が私の立ち会いのもと面接を受けていたという場面が記憶に残っています。

金沢市場輸送の社長になっていた被告訴人本恒夫が主に面接をしていましたが、周りに3,4人の人の姿があったようなこともぼんやりと憶えています。誰だったのか思い出せなくなっていますが、いずれも会社では発言力もあるような立場の顔ぶれだったと思います。

あるいは被告訴人松平日出男の姿もそこにあったのかと思いますが、被告訴人本恒夫と犬猿の仲とも言われていた被告訴人松平日出男の姿が、その場にあったということは、割と珍しかったようにも思えます。

麻雀のメンバーとして被告訴人松平日出男の姿を見ることもあったようには思いますが、金沢市場輸送の事務所で被告訴人松平日出男の姿を見かけることは、数の少ないことで、私自身数回しか経験していなかったようにも思います。

麻雀のメンバーとしてしょっちゅう見かけていたのが被告訴人東渡好信でしたが、それはちょうどストライキのごたごたがあったころで、ストライキを先導した首謀者とも言える、被告訴人東渡好信がその場にいたことは、可能性が低いとも思えます。

当時の状況を具体的に説明するにも23年以上経過した現在では限界もありますが、記憶が新しいうちに詳細に記述したとおり、ストライキは、被告訴人安田敏を招き入れるための計画的なお膳立てだった可能性が高いと思います。

初めに被告訴人安田敏から電話での連絡があってから、その金沢市場輸送への面接までの間、4,5日ぐらいだったようにも思いますが、一週間から長くて10日ぐらいあったかもしれません。

初めに電話を掛けてきた時、被告訴人安田敏は同じ金沢市内の運送会社「輪島屋鮮冷」で4トン車の長距離をやっていると話していました。

その数日後、実際に被告訴人安田敏が輪島屋鮮冷の4トン車を運転して、金沢市場輸送に来て、冷凍物の積み替えをするということもあったので、本当に4トン車で長距離の仕事をしているのだと、私は疑いもなく信じました。

金沢市場輸送と輪島屋鮮冷の間で、仕事のやりとりが始まったのは、その平成3年のはじめかあるいは前年の平成2年の終わり頃だと思われます。

今改めて考えると、時期的にも被告訴人東渡好信と関連があって始まった輪島屋鮮冷との仕事の関係だったのかもしれません。

輪島屋鮮冷のトラックを初めに見るようになったのは、金沢港の県漁連の売り場の前でした。早ければ私が長距離の仕事を始めた昭和59年のことです。時期は6月か7月だと思います。

ごくまれに他の時期もありましたが、金沢市場輸送で金沢港に鮮魚を積みに行くのは、毎年6月か7月の初めのスルメイカの時期だけでした。

金沢港では鮮魚の出荷はほぼ毎日あったはずですが、夜の22時とかのセリで、新潟、名古屋、大阪への運搬がほとんどで、それは運送会社ではなく、セリの仲買いである新田商店や直一商店が自分の会社の白ナンバーのトラックで運んでいました。

金沢市場輸送で例外的に鮮魚を運んだ時も、荷主は新田商店でした。

昭和59年の時は、中央市場の丸中水産の仕事としてスルメイカを運んでいた記憶があります。若旦那のような若い社長の姿もありました。

既に書いていると思いますが、昭和61年には丸中水産の仕事はなくなっていました。毎日の新潟定期便があったのですが、丸中水産の方から守田水産輸送に乗り換えられたという話でした。

8月だったような気もするのですが、昼前に金沢港でスルメイカではないサバなどの魚を大型車に積み込んでいたことがあり、新田商店の若い社員のフォークリフトの運転で危ない思いをしたことから、私が文句を言ったところ、蛸島のTSさんが飛んできて威嚇を受けたようなことがありました。

それが蛸島のTSさんに会った最後だったと思います。私は昭和63年の12月の20日頃まで、7599という車番のイスズの10トン保冷車に乗務していました。サバなどを積んでいたのもその保冷車です。

金沢市場輸送では担当のトラックが決まっていて、特に大型車では自分が担当するトラックを他の運転手が乗務することはなく、私の場合も私が担当である間、私以外に乗務することはなく、仕事を休んだという記憶もほとんどありません。

蛸島のTSさんが珠洲郡内浦町の松波の港で、買ったばかりの赤い色の軽四で海に飛び込んで自殺をしたという新聞報道を見たのも、最後に金沢港であってから半年ぐらいあとで、やはり平成1年の1月ころと思われます。

先日も他の記事の探しもので宇出津の図書館に行った時、平成1年1月の北國新聞の縮小版を、丹念に調べ直したのですが、蛸島のTSさんの自殺の記事を見るけることは出来ませんでした。

輪島屋鮮冷の話に戻しますが、初めは4トン車を2台ほど見かける程度でした。次のホームページにもトラックの写真がありますが、基本的なデザインは、初めて見た時からほとんど変わりがないように思います。

輪島屋鮮冷(株) http://wajimaya.co.jp/index.html

ホームページにあるのは大型車のそれもトレーラーのようですが、箱に書いてある文字の大きさの割合が、以前よりは若干小さくなっているような気もします。いずれにせよ大きな文字で書いてあるので、目立つと思います。

中西運輸商の保冷車も「中西運輸商」と大きな文字では書いてありました。

企業情報|輪島屋鮮冷(株) http://wajimaya.co.jp/company-history.html

上記ページの「沿革」には、「昭和60年 4月 金沢市神野にて資本金7,600,000円で設立」とあります。

金沢の国道8号線バイパスで、小松方面に向かうと金沢西インターを超えると、すぐにバイパスが左に大きくカーブし、北陸自動車から分岐しているのですが、そのカーブを超えてすぐ左側に、新しいアパートがあって、それが輪島屋鮮冷の会社というか事務所になっていました。

場所としてもよく通る目立つ場所でしたが、全くのアパートを会社の事務所にしているというのも、他には見たことも聞いたこともなく、型破りな会社として目立つ存在でした。

宇出津に住んでいると目立つ輪島屋鮮冷のトラックを見ることもなかったので、一年ほどまでしようか、ふと思い出して検索で調べたところ、全国展開するほどに大きくなっていて驚きました。

序になりますが、数年前までは宇出津の近くでもたまに見かけることのあった蛸島の浜田漁業のトラックを見かけなくなったと思いだし、同じく検索で調べたところ、倒産情報があり、それがほとんどリアルタイムに近い情報で驚いたこともありました。

金沢市神野の輪島屋鮮冷のアパートの事務所には一度行ったことがありました。他に経験のないことですが、面接に付き合いを頼まれて同行したのです。面接の同行など聞いたこともなかったので驚いたのですが、そういう経験もありました。

面接の同行を頼んできたのは、宇出津の1つ年下のKでした。思えばKともあれ以来会っていないようにも思いますが、何をしているのかどこに行ったのか、噂にも聞いたことがありません。

Kは宇出津の城野町に家があって、私の1つ年上の兄がいました。その兄は小木分校に行っていたので、被告訴人KYNもよく知っているはずですが、その兄の話も全く聞いたことがありません。今はほどんどがそうなっていますが、早い時期から話を全く聞かなくなりました。

Kとは当時、多少の付き合いがあったのだと思いますが、久しぶりの再会でもあったと思います。どこで再会したのかも思い出せないですが、私が昭和59年の10月に金沢市場輸送をやめてすぐの頃、Kも金沢市場輸送に入社して、しばらく4トン車で長距離の仕事をしていたとも聞いていました。

面接の同行に関しては、似たような話を聞く機会が一度だけありました。普通はあり得ないことだと思うのですが、アパートを事務所にしているような会社であれば、慎重な様子見ということで、そういう気にもなることがあるのかもしれません。

Kにしても面接で即決で採用にはなったものの、仕事には行かなかったように思います。

輪島屋鮮冷に関してはその頃にもうわさ話のようなものを聞いていたと思いますが、社長として輪島屋鮮冷を始めた人物は、丸西水産輸送で配車係をしていたという話でした。運転手をしていた頃、事故を起こし飼い殺しのような状態になっていたとも、聞いたような気がしますが、真偽は不明です。

早い段階で七尾市の石崎(いっさき)の出身だとも聞いていましたが、石崎ではなく和倉のボンボンと聞いたこともありました。和倉温泉は全国的にも知名度の高い、温泉地だと思います。「加賀屋」は以前、テレビでもよく取り上げられていました。

中西運輸商の社長も七尾市の石崎の出身だと聞いていましたが、こちらは違うという話も聞いたことはなかったです。

石崎も和倉も、七尾市の一部にはなるはずですが、七尾市の町内ではなく、独立した町というイメージが強いです。石崎に関しては「石崎奉燈祭り」として聞くことが石川県内では多いかと思います。

同じ能登でも、かなり離れているので余り知らないのですが、漁師町で気が荒く、話し言葉も汚いと聞いていました。輪島市の海士町と似たようなイメージだったので、輪島港ほどではないにせよ、それなりに大きな漁港をイメージしていました。

石川県立水産高校小木分校で同級生だった波並の同級生が、高校を卒業して七尾市の石崎の魚屋に就職したという話も聞きました。別の高校の能都中学校の同級生の女子も和倉温泉の加賀屋に就職したという話を聞きましたが、同じ高校卒業直後の時期だったと思います。

石崎の魚屋に就職をしたという同級生には、昭和63年ころだと思いますが、一度、富山県氷見の魚市場で、たまたま顔を合わせたことがあり、相手も驚いていました。7599の大型保冷車に乗務していたときのことです。

普通、金沢や羽咋市から宇出津に向かうには七尾市内は通過しないのですが、七尾市内から宇出津に向かうと和倉温泉駅の前を通り、その付近では電柱に「石崎町」という住所の看板は見かけていました。

一月ほど前の8月の下旬、穴水町までバイクで買い物に行ったのですが、思ったような商品が見当たらず、思い切って七尾市まで足をのばしたのですが、その時に初めて石崎の漁港を探して行ってみました。

予定外のことで下調べもなく、適当に見当をつけて走っていると、能登島まで渡ってしまいましたが、その能登島大橋を渡ったのは2度めのことで、平成3年の5月か6月に家族を連れて、のとじま水族館に行って以来のことかと思います。

能登島には小木分校の高校一年生だった昭和55年に、水産高校の「おおとり丸」という船で、40人ほどの無線通信科の同級生と行ったことがあったのですが、その頃は橋もなく、橋が出来るという話も聞いておらず、完全な島という状況でした。

看板を頼りに石崎の漁港と思わえる場所に行ったのですが、余りの港の小ささと漁港らしくなさに驚きました。魚市場のような建物もありましたが、松波の漁港より小さく、船の数も少なく見えました。

ずっと前に一度来たことのある場所だという気もしましたが、誰かの車に同乗している時に来て見た風景だとは思いましたが、石崎の港という認識はなかったように思います。

伝統のある江戸時代の名残も残っていそうな漁港をイメージしていたのですが、思い描いていたものとはまるで違い、漁港というよりヨットハーバーに近いような印象でした。

石崎に向かう前には、和倉温泉の方にもバイクで行っていたのですが、和倉温泉の方は想像していたよりはるかに規模が大きい温泉地で旅館の数も多く、セブンイレブンのコンビニまであるので驚いていました。

和倉温泉には昭和61年の1月、中西水産輸送の新年会で旅館に一泊したことがあったのですが、たぶんそれ以来ではないかと思います。それ以前にも行ったのはダクト屋の仕事で、美湾荘に行った記憶があるぐらいですが、当時はほとんど関心もなかったのか、記憶に残る風景も僅かなものでした。

<2014-09-27 土 07:03> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]