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"Title : 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月16日
"Cats : 2014-木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)に対する告訴状(被疑事実殺人未遂)のブログ版
"Tags : 長谷川紘之弁護士,金沢弁護士会
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<2014-09-16 火 00:04> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]
投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:33 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587024911249409
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_02.jpg http://t.co/DXgPmH2S5Z
現在も同じかどうかわかりませんが、民事裁判の判決書は、請求の趣旨と請求の原因に分かれるものだと勉強していました。請求の趣旨が、刑事裁判における主文と同様に判決の結果に相当する部分で、請求の原因が結果を導く理由のような部分であったと、間違いはあるかもしれませんが私は理解しています。
その辺りも独自に勉強をしたので、心もとない部分もあるのですが、請求の趣旨に関しては、裁判で求める結果であると同時に、一事不再理のような法的効果も伴うとなにかで読んだことがありました。同一内容での訴えは繰り返しが出来ないということになるので、理解が不十分な分慎重にもなりました。
この件に関しては、ただ一度、福井刑務所の出所後に訪問をした木梨松嗣弁護士の法律事務所で、木梨松嗣弁護士に直接確認もしました。記憶がやや曖昧になっていますが、「君なら一人でやれる」というような木梨松嗣弁護士の発言もあったかと思います。
訪問の経緯に関してはよく思い出せない部分もあるのですが、けっこう同様しているような印象も受けました。私としても相手の真意と状況が読めなかったので、とりあえず、帰り際に手を握って、感謝と信頼の態度を印象づけておきました。その場の状況判断で出た行動です。
続いて、請求の原因一の1には、「訴外市場急配センター」という文言が見受けられます。これも木梨松嗣弁護士の謎かけ染みた態度と共通するものがあると、改めて思いました。わざわざ「訴外」とつけるのは、いかにも意味ありげです。
本当の目的は訴外市場急配センターの責任の追及と事案の解明であって、すべてはその目的のための手段であると、いわんばかりの思わせがあると思いますし、当時の私も理屈の上ではそのように理解し、受け入れようという努力もしました。
続く「夫々勤務していたものである」という部分が、当時は極めつけの示唆とも解釈されました。「夫々」は夫人とも夫婦とも関係があるように読めますし、「それぞれ」と読むことを知るには、まるで暗号の解読のような手間と時間がかかりました。
どうやって探しだしたのか今は思い出せないですが、ずいぶんと手間と時間のかかったことは印象的に憶えています。当時の私は明治大正時代のカタカナ混じりの判決文を調べながら読む機会も多かったので、普通は全く見かけないような漢字もかなりの程度は読めるようになっていました。
たとえば「所謂」、「序に」、「寧ろ」、「此処に」、「茲に」、「而して」などが現在でも思い出せますが、目にする機会はほとんどないものばかりです。「夫々」は、それよりさらに珍しいものでした。
当時の判決書などで用いられる文章の体裁は「文語体」と言い、それではわかりづらいので裁判員制度の合わせて、「口語体」による体裁を推奨しているような情報も見かけたことがありましたが、それにしても昭和初期以前の漢字を使うとは、専門家の慣行は知らないものの理解を超えています。
戦後の判例もかなりの数目を通していましたが、やはり「夫々」というような古典的な表現を使った例は全く見かけたことがなく、どう考えてもあざといトリックじみた仕掛け以外には考えにくいところです。まあ、インターネットが普及して専門家以外の目に触れるとは全く想定していなかったのでしょう。
「一の2」では「被告は、かねてから原告に好意を抱いて交際を求めていたが、原告から断れていたものである。」という記載があるので、原告代理人という立場の発言で見ると、当事者としてもそれ以外の解釈の余地はないような、衝撃的な事実の明示でした。
全体的に見ると、私自身が認めるかたちになってしまった金沢西警察署の調書や確定判決の事実認定を指し示しただけという風にも見えなくはなく、そういう理解も出来なくはなかったのですが、言葉の持つ暴力性の方が、当時の私にははるかに大きいダメージであり、同時に重くのしかかる謎でした。
何が謎かというと、当事者であり経験者である私自身以外にはわからない事実がほとんどかと思いますが、重要な事実が一切合切、無視され切り捨てられているのです。それは被害者の真意や気持ち、そして事実関係も同じです。
どうしてこれほどのデタラメが出来たのか、弁護士としての職業性にも目を向ける必要を感じ、私はそれをかたちにして指し示すために、多くの時間と労力を費やして来ましたし、それが未だ手違いが入り込む余地が若干はあるもののプログラムを利用した効率化としても結実したものとなっております。
他の社会、業種ではまったくあり得ないような不誠実さとデタラメぶりだと思います。不誠実という次元の話ではないと思います。人を社会を獲物のように舐め腐った超絶的なおごりと独善、利己主義のかたまりではないかと思います。
弁護士に対して常識的ふるまいのの一欠片の期待があれば理解は不可能かもしれないです。関連的に理解に資するような情報は多々見ることができますが、ストレートに的を射たものは、未だお目にかかったことがありません。
私は時折、弁護士の棲む業界のことを「泥棒神社」と比喩していますが、まさにまったくそのとおりだと、日々確信を強めることが多いです。
泥棒が奪ったものは金銭的な利益にとどまりません。人生そのもの生活そのものを奪い、まったく顧みる気配もないという現状です。また、それが普通に通用しているようなので、重ね重ねて戸惑いも増し、大きな時間の浪費にもつながってきました。
現在においても、検察、警察が弁護士らの期待通りに無視し続ければ、さらに忘却の彼方に追いやられてしまうだけの問題だという危機感のみを募らせてもおります。否定された時の自分自身に跳ね返るダメージが、自分自身にも計り知れず大きいことを、人生の大きな節目において幾度か経験して来ました。
先に進めます。「二、不法行為の1」という部分に関しては、まったく警察の調書の引用そのものと思われます。結論を先に述べると、私の反論のような主張に対しても、長谷川紘之弁護士は何一つ答弁のような対応をしておりません。
そればかりか、福井刑務所の庁舎内でおこなわれた私本人の、被告尋問とかにも、姿は見えず、当然に反論を受けるような機会もありませんでした。実質、刑事裁判の確定判決の記録のみで3千600万円とかの損害賠償判決が、古川龍一裁判官によって出されたことになります。
マスコミに司法界最大の汚点とも評された大問題の当事者となった現職の福岡高裁判事が、古川龍一裁判官その人でもあります。
本人の問題というよりは妻のストーカー事件が原因ではありましたが、そのもみ消しに奔走したような疑いが持たれ、事後の対応として世間の注目にさらされ、責任を問われることにもなったはずかと思います。弾劾裁判とかにもなったはずですが、細かいことは調べないと正確には思い出せないです。
たしか福岡高裁の前任地が金沢地方裁判所で、私の民事判決を出したのもその時だったと思います。中途半端なインターネット上の未確認情報では、ストーカー事件を起こした妻は、金沢市あるいはその近郊の医師の娘という情報もありました。
あまり信用のおけそうもない未確認のインターネット上の情報ぐらいしか、プライバシーの問題もあるので、判断の材料として得ることは出来なかったですが、私の裁判ともなにがしかの関連性のあることは、一つの可能性として思いを巡らした問題ではあります。
一方の長谷川紘之弁護士も、刑事事件に巻き込まれている事実があります。これも妻の方が主体の事件でしたが、強盗事件の被害者として新聞に報道されていました。
私自身、福井刑務所の中で同じ受刑者から聞いた話だと、同じ福井刑務所で受刑中の強盗事件の加害者が、長谷川紘之弁護士に妻に対して強姦もやっていると吹聴していたとのことです。あくまで話なので真偽は不明ですが、新聞の報道でも気になるところはありました。
近いうちに図書館での確認の必要性を考えているところでもありますが、その強盗事件の犯人は長谷川紘之弁護士の家に強盗に入る前、たしか当時の能美郡の方だったと思いますが、そこで強制わいせつ事件だったかと起こしているはずです。
確認の必要が大きいですが、私のおぼろげな記憶では、午後に長谷川紘之弁護士の家に強盗に入る当日の午前中に起こした事件であったようにも思っています。
新聞の報道では、強盗事件のあったときの長谷川紘之弁護士の家というのは、建築中の新居のための、仮住まいとなるマンションの一室ではなかったかと思います。金沢市内でも円光寺とかの近くであったという記憶も残っています。
長谷川紘之弁護士の妻が強盗の被害にあったことは、服役中であった福井刑務所で知っていました。事件のことを知ったのは長谷川紘之弁護士が自分が訴えられた民事裁判の原告代理人の弁護士であるということを知ったことの後でもあったはずです。でなければあれほどしっくりと理解はしなかったはずです。
本書でも既に何度か書いていると思いますが、受刑者の場合、読売新聞に限られてはいましたが、比較的自由に新聞の閲覧が出来、金沢刑務所と違って福井刑務所の場合は、夕食後の夜間にも居房に新聞の閲覧が回ってきました。基本は独居房でも10分程度だったと思いますが刑務官が回収に来るまでの時間。
刑務所の居房には時計はなかったですが、長い時は15分から20分以上、回収までの時間があって、気になる記事は十分に読む時間があったと思います。前にも書いたと思いますが、これは金沢刑務所との大きな違いでもありました。
出所後にも図書館の方で、その事件のことを北國新聞の縮小版で調べたことがありました。宇出津の図書館でも羽咋市の図書館でも、そのことは調べたように記憶にあります。
当時はそれほど深く関連付けて考えてもいなかったのですが、私が民事の裁判を起こされるより前の事件であることを確認したような記憶が残っています。当時は訴状が手元に来た平成6年11月を基準にして考えていたように思いますが、強盗事件はその年の6月、あるいは7月となっていたように思います。
先日の確認で意識するようになったことですが、訴状が金沢地方裁判所の民事部の提出された日付は平成6年の7月5日となっているようです。訴状を作成して提出するまではそれなりの準備の期間もあったはずなので、確認が必要だと繰り返しますが、代理人の受任をした後の事件である可能性が高そうです。
時刻は9月16日8時50分になっています。他にも写真資料は沢山あるので、どれを本書で取り上げるかも迷うところですが、少しでも先に進めたいと思います。
投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:33 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587138207805440
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_03.jpg http://t.co/blsWt5JcDX
上記「訴状」の写真資料3枚目、「二の2」の部分になるのだと思いますが、「抗拒不能の状態であるのに乗じて、姦淫しようと企て」というくだりがあります。これは準強姦罪の構成要件の当てはめそのものと思われますが、江村正之検察官が作成した文言の丸写しであるはずです。
被疑事実が準強姦罪になっているので、プライバシーの保護が最大限に尊重あるいは優先されるケースになるのだろうと思いますし、私自身、そういうことをこれまで身をもって経験してきました。無視という反応が一番多いのかもしれません。
本書ではまだ事件当時の状況の具体的な詳しい説明はしていないように思います。
現在の私の記憶では曖昧になっていますが、二人でレストラン十字を出たのが、平成4年4月1日の19時20分から30分。金沢港の大野埠頭で致命的な大怪我を負わせ、そのまますぐに病院への救急搬送を目的に金沢西警察署に向かいました。
金石街道と呼ばれる道幅の広い道路の反対側ですが、ほぼ金沢西警察署の正面付近に自己所有の軽四輪自動車アルトワークスを停車させ、助手席に横たわる被害者に、今から警察署に入ると声を掛けました。
「俺、お前のために人生棒に振ったようなもんやな。今から警察行って、刑務所に行くかもしれんけど。最後に一つだけきくけど、本当に車停めておった覚えないがか?」などと声を掛けました。金沢西警察署の供述調書でも概ねそのように記載されていたように思いますが、しっかり確認はしていません。
彼女は不思議なほど、痛いとか、やめてとも言わず、ただ黙っていたのですが、私が声をかけると、すぐに反応し、「わたし、そんなん知らんよ。なんの話や、それ?」というような返事をしました。
走行中の車内で初めに彼女を殴りつけた時も、「Aちゃん、何思って会社の裏に車とめておったん?」と問い詰めたことがきっかけでした。
現在の私の記憶でははっきりした言葉を思い出せなくなっていますが、「なんの話や? わたしそんなん知らんよ。」というような返事であったと思います。この返事が、私になんとしてでも納得の行く話を聞き出す他はない、このままでは自分も彼女も本当におかしくなってしまうという決意をさせました。
本書でもある程度のところまでは説明済みと思いますが、裏駐車場のことは、自宅での電話対応の拒否と連動していました。中心的な期間は、平成3年11月30日と思われる午後から、平成4年2月1日と思われる土曜日までになります。
終了したのが平成4年2月3日の月曜日の朝、ということにもなるのですが、これは私が24トンのミールを積んで、九州の福岡県福岡市に出発する直前のことでした。
土曜日の2月1日夜には初めて、彼女つまり被害者AAさんのことで、当時は存在のない言葉でしたが今風に言うと元カレという被告訴人安田繁克と話をする機会がありました。
これは偶然ではなく完全に仕組まれた計画であったと言えます。ひとつの橋渡しのような役割をしたのも被告訴人多田敏明でした。
当日の土曜日のことですが、午前中の11時ころぐらいに、被告訴人東渡好信がさりげなく、今夜22時か23時ぐらいに、トッチ(被告訴人多田敏明)が、古河から荷物を積んできて金沢の市場で空車になる、というような話をしていました。
時刻は17時06分になっています。中断をしていました。午前中に宇出津の図書館に行き、予定していた長谷川紘之弁護士の家の強盗事件について、北國新聞の縮小版を調べてきました。
こちらは蛸島のTSさんの松波港での自殺の件とは違い、実にスムースに記事を見つけ出すことが出来ました。当初予想していたのは平成6年6月だったので、その6月と5月の縮小版を棚からテーブルへと運び、まず5月分の索引から調べたのですが、これが一発で的中しました。
過去に何度か目を通している記事なのですが、意外に忘れていたことや気が付かなかったこともありました。一部記憶が変容しているようなところもあったり、別の事件のこととすり替えるようにかんちがいしていたこともありました。年月が長くなるだけの変化というものを実感した気分です。
まず、事件は平成6年5月16日午後0時47分ころ、金沢市大額で発生したことになっていました。時間帯の方は記憶通りでしたが、場所を何故か円光寺から山科辺りという、泉ヶ丘通りのはずれの方と勘違いしていました。
金沢市の大額というのは金沢市の南の外れとも聞いた覚えのある四十万の一つ手前の町内というか地名という印象ですが、個人的には初めに金沢市場輸送に入社して4トン車の長距離運転手の仕事を始めた昭和59年、神野のKMが宇出津のUTと同棲していたアパートによく遊びに行っていた印象が強いです。
宇出津のUTが私の近所で、二つ年下、同級生の被告訴人大網健二の妻とも仲良くしていたことなど、被告訴人大網健二の結婚式にも出席していたことなど、既に一通りのことは記述していると思います。
当時、神野のKMは山水運輸で4トン車の大阪定期便の仕事をやっていましたが。高井水産から山水運輸に社名が変更になったというのも、その頃だったと思います。KMは被告訴人安田敏との接点もありますが、個人的に付き合いをしたという話は、私の知る範囲聞くことはありませんでした。
本書で書き漏らしをしているかもしれないですが、昭和58年の10月頃、神野のKMも被告訴人安田敏と一緒に、中央防災の消火器売りの仕事をしたことがありました。10日かあるいは2週間の見習い期間の間だけで、それがすむとすぐに辞めていきました。
見習い期間中は、売上に関係なく日当が5千円もらえていたと思います。あとは完全歩合制だったと思います。ガソリン代などの経費も行動するグループで折半する決まりになっていました。
被告訴人安田敏は再度、シンナーに手を出して精神の状態がおかしくなるまで、その消火器販売の仕事を続けていたようです。本人の話では、自分で体に異変を感じ、自ら病院に行って、再度松原病院に入院することになったと話していました。
話をよく聞いていなかったためか、2回めの松原病院での入院期間や時期がはっきりしないのですが、退院してまもなく金沢市場輸送で市内配達の仕事をするようになったと、噂で聞いていました。
市内配達と言っても、青果物の配達ではなく、氷などを運んでいるような話でした。氷の仕事は私や被告訴人大網健二も、昭和59年の夏頃、長距離の仕事の合間によくやらされていた仕事ではありましたが、規模が大きくなって、他と合わせて市内配達の専属としてやるようになったと聞きました。
中西運輸商のトラックで金沢市場輸送の前に行き、被告訴人安田敏のことを尋ねたところ、少し前にやめて岐阜にいったところだと、北浜太一の弟の人に言われました。これが昭和60年の8月の下旬と思われます。ちょうど岐阜県海津町のライスセンターの出稼ぎの仕事が始まる時期でした。
昭和58年の12月のクリスマスの頃までは、ちょこちょこと被告訴人安田敏に会って、一緒に遊んでいました。被告訴人安田敏は出張と称する県外の仕事が多くなったと言い、会う機会も少なくなりました。当時はもちろん携帯電話などなく、連絡をするのも容易ではなく、直接の訪問が多かったと思います。
今考えると、当時のアパート住まいの友人でもアパートに固定電話をつけているのは少なかったように思います。それが普通になっていたので、さほど不便にも感じていなかったように思いますが、被告訴人安田敏もいきなり訪ねてくるようなことが多かったと思います。
消火器販売の仕事で安定した収入を得るようになった被告訴人安田敏は、増泉一丁目と野町の境の辺り、「いっさか」と呼ばれるあたりにアパートを借りて住むようになっていました。そのアパートにも何度か遊びに行った憶えがありますが、次第に疎遠になり会うこともなくなっていきました。
岐阜に行ったというのも行き違いになりましたが、昭和59年の1月に私が金沢市場輸送に入社してからは、たぶん会うことはなかったように思います。被告訴人安田敏のうわさ話を聞くこともなくなっていたと思います。
次に被告訴人安田敏と会うようになったのは、昭和60年の12月に入ってからだと思います。岐阜のライスセンターの出稼ぎの仕事から戻ったところだと話していました。出稼ぎ手帳をもらい、出稼ぎが終わった後も失業保険のようなお金がもらえるとも話していました。
ちょくちょくと私の東力二丁目のアパートに遊びに来るようになりましたが、その場で中西運輸商の配車係になり、そのあと金沢市場輸送の配車係にもなったYTや、被告訴人KYNとも私のアパートで顔を合わせることがありました。
そうやって考えると、被告訴人KYNが宇出津で配管設備の仕事をやめて、金沢に出てきたのは庄和61年の秋ということになりそうです。
昭和61年の5月ころの時点で被告訴人KYNは、金沢市松村にアパートを借りて生活をするようになっていました。ずいぶんと古い家で、アパートというよりは借家という感じであったようにも記憶にあります。骨董品を感じさえるような建物でした。
片町の金劇の建物の飲み屋で、松波のAKさんと3人で被告訴人安田敏の送別のような飲み会をやったことも既に本書で書いていると思います。多分になりますが、昭和61年の春先頃と思われます。
被告訴人安田敏は決意の旅立ちのようなことも語りにしていたので、その印象が強いのですが、どこへいく話だったのかも思い出せません。
その後のこともよく思い出せないのですが、昭和61年の6月には、私は被告訴人安田敏を頼って、岐阜県海津町へ行きました。岐阜の方へ連絡したのではなく、その前に金沢市で落ちあって岐阜に行く話を決めていたのだと思います。
このあたりも本書で既に記述しているところだと思いますが、8月の20日頃には私は岐阜から戻り、その3日後ぐらいには、たまたまの思いつきで電話をした金沢市場輸送に入社をして、市内配達の仕事をするようになりました。
そのあと、被告訴人安田敏との関係では連絡がなくなり、会うことのない期間が長く続いたように思います。
金沢市場輸送で大型保冷車に乗務するようになったのは昭和62年の4月に入ってからでした。時期がはっきりしないのですが、大型車の仕事にも慣れ、生活も安定した時期だったように思います。
金沢市の繁華街、片町で「サムライ」というディスコがオープンしたと聞き、これはかなり話題になっていたようですが、いわゆる黒服とかホストという男性による接客の走り、時代の変化のような節目でもあったと記憶しています。
それまでにもディスコというのは聞くことがありました。初めて金沢市に出てきた昭和56年の夏の時点で、「バナナビーチ」というディスコが片町にあると知っていましたが、服装や髪型に厳しく、不良のような若者は拒絶されると聞いていましたし、それがディスコというイメージもなっていました。
サムライというのはディスコのイメージも変えましたが、時代はその頃からバブル景気に入っていたのかもしれません。都会のことはわかりませんが、テレビでディスコのお立ち台とか踊る若い女性の姿を見かける社会現象が到来するよりは、前の頃の話です。
サムライというディスコは若い男性がメインで接客をすると聞いていましたが、ずいぶんと久しぶりにうわさ話を耳にした被告訴人安田敏が、そのサムライというディスコで仕事をするようになったという話がありました。
たぶんになりますが、共通の友人関係からもその話を聞いたのは、被告訴人大網健二の可能性が高いと思います。すぐにやめたような話を聞いたようにも思います。一月か長くて3ヶ月と聞いたような気もしますが、もっと短くすぐにやめたのかもしれません。
すでに被告訴人安田敏がサムライをやめたことは知っていた時期だと思いますが、私はそのサムライというディスコに一度だけ行く機会がありました。
久しぶりに集まったというより、私だけが久しぶりに参加という感じにもなっていたと思いますが、被告訴人大網健二、被告訴人KYN、富来のOT、のちに金沢市高尾の建設会社の部長になったHMもいたと思います。HMはその後結婚してSMになりました。
当時の私は長距離トラックの仕事でテレビをみる時間も少なかったのですが、初めて入ったサムライというディスコの店内は、広く別世界のように印象的だったという記憶があります。昭和58年の7月に東京ディズニーランドに行った時に、感じた感覚にも似ていました。
酒の入る付き合いというのは極力避けるようにしていたので、私にしてみると当時は数少ない片町に飲みに出るという機会だったのですが、それだけに数の少ない機会として特定も比較的容易にはなるかと思います。
金沢では私が子供の頃から大和というデパートが有名で大きくもあったのですが、その後、香林坊の方に移転しました。現在も同じかどうかわからないですが、アトリオという名前になっていたように思います。
移転する前の大和デパートは建物がそのままで、記憶に自信がなくなっていますがラブロとかいう名前になっていたように思います。昭和57年の時点ではまだそこが大和デパートでした。
香林坊の方から片町のスクランブル交差点に向かうと、メインの道路が右にカーブしていて、そのカーブの手前左側の方にナンバーワンビルとかいう幅の狭い高い建物があって、カーブのすぐ先の同じ左側のビルの中にサムライがあったように記憶しています。
カーブの手前の左側にあるのが旧大和のデパートでした。サムライに行った時だと思うのですが、私は被告訴人大網健二と被告訴人KYNの二人を連れて、被告訴人安田敏が働くという飲み屋を探したことがありました。
それより前に被告訴人安田敏から電話で連絡があって店のことを知っていたのだと思いますが、旧大和デパートの裏の方に店があると聞いていました。右の方にもう少し進むと、香林坊の映画街になりましたが、その片町寄りの辺だと思っていました。
店を見つけることはなく、電話番号を調べて連絡するということも思いつかなかったのですが、被告訴人大網健二も被告訴人KYNも酔っ払って、ずいぶんと上機嫌だったことなど、その場面のことは印象的に記憶に残っています。
<2014-09-17 水 09:00> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]
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